川端裕人さんの「みんなのPTAを探して」(「婦人公論」連載:2007/4〜2008/3)のバックナンバーを「ブログ版」として公開しています。(著者公認)
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管理人:Pさん
 

2007年10月23日

第3回 エキサイティングなPTA史


本家関連エントリー
 エキサイティングなPTA史 (2007.5.7)
 エキサイティングなPTA史(婦人公論連載PDFその3) (2007.10.16)

 無駄にも思える労力と、無意味に思える熱意を注ぎ込まれて、また、時に空回りさせつつも、PTAは20世紀を生き抜き、今日も続いている。文句たらたらな人がたくさんいる反面、何かを得たり、自ら成長する人もいる。その歴史には、矛盾を原動力にした、人の思いのダイナミックな発露を見いだせる。

■ 大人の学びの場として出発


 歴史は大事だ。一見、非合理、不合理に見えることでも、何十年前の「先輩たち」が、その時その時に真剣に考えた結果であることが多い。だから、今のPTAを素描する前に、歴史の勉強。『日本PTA史』(日本図書センター刊・PTA史研究会編)とウェブでも読める「日本PTA50年の歩み」(日本PTA全国協議会)も参考にしつつ、PTAの歴史についてまとめておく。

 これが、実にエキサイティングなのだ。捻れや矛盾に満ちており、にもかかわらず、ダイナミックに「戦後」から新世紀へ受け渡されてきたものとして、ぼくはある種の畏敬の念を抱かざるを得ない。

 日本でPTAが発足したのは終戦直後だ。とすると、自動的に想像する人もいると思うのだが、背後にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がある。
 1946年、来日した米国教育使節団がまとめた報告書の中で、PTAの必要性が説かれた。いわく、

学校はまた、成人教育を振興するための潜在力であり……両親と教師の会の強化、討議や公開討論会のための校舎開放などは、学校が成人教育に提供しうる援助の2、3の例にしかすぎない。

 ここでは子どものためというよりも、むしろ、大人の学びの場(成人教育)として言及されていることに留意したい。

 さらに、翌47年、極東委員会(連合国の最高決議機関)も同様の指摘をして「父母と先生の会の結成を奨励すべし」と指令を出した。

 これらを受けた当時の文部省は「父母と先生の会委員会」を設置し、「PTA結成の手引き」を公表した。1年後の48年4月には全国の小学校・中学校の7割にPTAがあったというから、凄まじい普及ぶりだ。さらに2年後には9割になり、日本は間違いなく世界屈指の「PTA大国」になった。

■ PTAなくして学校給食なし


 初期のPTAとはどんなものだったろう。47年に「父母と先生の会委員会」が作成した、「第一次PTA参考規約」では、PTAの目的に、大きく2つの系統のものが挙げられている。

 一つは米国教育使節団の指摘にあった「成人教育」を中心とした活動で、「民主社会における市民の権利と義務を理解するための成人教育の推進」「家庭生活・社会生活の水準向上」といったもの。もう一つは、子どもの教育に直接かかわる活動で、「学校の教育環境の整備」「家庭・学校・社会における児童青少年の福祉の増進」といったもの。これらの二本柱だ。

 さらに、団体の方針として、

  • 教育を本旨とする民主的団体
  • 非営利的、非宗派的、非政治的
  • 自主的団体のものであって、他のいかなる団体の支配、統制、干渉をも受けてはならない
 などと高らかに述べられている。非常に「開かれた」民主的な色合いの濃い内容だった。

 これらは当時の親たちにとって新鮮なものだったらしい。PTA草創期には、「民主主義」を謳歌する今から見てもうらやましくなるようなPTAがあったという。ぼくの身近なところで、世田谷区のある中学校PTAの「弾けた」活動のことなど、いずれ書くことになるだろう。

 その一方で、結成を急いだがゆえに、本質を理解しないまま、旧来からあった後援会、父兄会などの名前だけを変えてPTAとしたところも多い。この場合は、会則には「参考規約」を引き写しつつも、元々の「後援会」的な性格を色濃く残した。

 戦後の貧しい時代だから、教員の生活補給金や、学校給食の実施、学校のさまざまな備品、図書館の整備のためなどの費用をPTAが負担せざるをえなかったという。こと給食に関しては「PTAなくしては学校給食なし」という地域が多かったし、「公立校ではなくPTA立校」と揶揄されることもあった。PTA会長には、
集金能力に長けた地域有力者が就任し、いわゆる「ボス会長」が続出した。学校側もPTAに対して頭が上がらず、一方、保護者側も金銭的な負担にあえぐことが多々あった。

 日本が高度経済成長期を迎え社会が豊かになりつつあった60年代後半に状況が変わる。東京都の場合、67年、東京都教育長が各教育委員会に対して、義務教育の学校にかかる費用は公費負担として、PTAから寄付金を受け取らないよう指導した。また、それを実現するために必要な予算措置もとった。

 保護者の金銭的負担は軽くなったものの、皮肉なことにこれによってPTAの存在意義が分かりにくくなった面がある。本来は、「会員の学びの場」として機能してこそのPTAのはずが、戦後の20年間「後援」の機能ばかりが強調されたが故のツケが回ってきた。目的意識が希薄なPTAなどいらない、というPTA廃止論も顔を出すことになる。

■ 廃止論が指摘すること


 69年に兵庫県教員組合が展開したPTA廃止論が興味深い。日本全国PTA協議会の機関誌に発表された論文の中で指摘されたPTAの6つの欠陥とは──、

  • 学級での父母と教師の話し合いが実質的になされていない、
  • 各段階での連合体が文部省・教育委員会と癒着し、教育行政機関化している、
  • 地域ボス役員がPTAの後援会的性格を温存させ、力を保っている、
  • 一部ボスや有力者が人事を含め学校の運営に口出し干渉するほか、進学中心の間違った教育要求をしている、
  • 地域社会の教育環境作りに立ち上がらない、
  • 父母の教育への願いを政治に反映させる事ができない、
 実に鋭い指摘だ。6つのうちのいくつかは、今でもそのまま「欠陥」として残っているかもしれない。いや、どの項目も、程度の差こそあれ「解決した」という域には達していないだろう(ただ、学校の人事干渉は、今はほとんどなくなっており、むしろ学校のPTAへの干渉の方がしばしば問題になると認識している)。

 この指摘がなされた直後、日本全国PTA協議会では使途不明金問題をめぐる「組織的迷走」なる時期があったようなのだが、深入りしない。PTAの存在理由が問い直された時代であり、さまざまな面でこれまで蓄積してきた矛盾が吹き出したのだろうと想像する。

■俗悪番組の告発≠ェ転換点


 とにもかくにも、ここまでがぼくが知らないPTAだ。

 70年代以降になると、自分自身が生徒として学校に通うようになるわけで、PTAという名前は意識していた。はからずもその時期、新たな(あるいは本来の)あり方を模索中だったとは、当時、理解できるわけもない。
 今、思うに、自分の中に定着した最初の強烈なPTAのイメージは、やはり「とんがり眼鏡・ざーます口調」だ。「子どものために」を合い言葉に、無茶なことを言う人たち。ヒステリックで杓子定規で、かなり怖い……。

 このイメージはぼく自身だけではなくて多くの人が共有している。今ですら、メディアに登場するPTAの類型はこれだ。たとえば、一世を風靡したレイザーラモンHGの「腰振り」に反対する「PTA」というキャラクター(?)の存在を、検索していて知った。そいつも「とんがり眼鏡」をかけており、例のステレオタイプを体現している。いずれにしても、PTAにとってはあまり幸せなイメージではな
い。

 なぜこうなってしまったのか。

 原因のひとつに、ぼくはPTAが70年代に取り組みはじめた有害環境の浄化運動があるのではないかと思っている。混乱期を経てPTAが打ち出した、新たな取り組なのだが、それが我々の社会には強烈なインパクトを与えた。

 まず、72年に「不良マスコミ排除の要望書を関係官庁」に提出。78年には、文部省、民法連等へ同様の内容を申し入れると同時に、テレビ番組ワースト7を発表した。改善がない場合にはその番組スポンサー企業の商品不買運動を決定するなど、非常に徹底したものだった。

 ちなみに、この時のワースト7とは、「8時だよ全員集合」「スターどっきり秘報告」「見ごろ食べごろ笑いごろ」「ウィークエンダー」「飛べ孫悟空」「噂のチャンネル」「女子プロレス」。

 「8時だよ全員集合」や「飛べ孫悟空」など、今思い出してもキュンとなるくらい素敵な番組だったので、この選定は胸が痛い。以降も続いている「ワースト」選定やメディアへの「圧力」が、非常に「ヒステリック」だと感じた人は多いらしく、例の「とんがり眼鏡・ざーます口調」は、一時、批判される側だったマンガなとでも「PTAのおばさん」としてよく描かれるうちに、定着するようになった。それが目下の仮説だ。

 70年代以降のPTAがなにも俗悪番組の告発ばかりをしていたわけではない。そもそも、これはあくまで連合体としての活動であり、個々のPTAの取り組みではない。80年代、90年代を通じて、PTAの目的を整理し直し、教育と子どもの育ちに寄り添う民主的な団体としての性格を追究しようとした「先輩たち」は多い。でも、今の時点では、戦後、PTAがどのように始まったのか、原点の部分を押さえて、よしとする。

 あえて要約する。

  • 日本のPTAはGHQの指導のもとに始まった。
  • あくまで自主・民主的団体で、会員の学び、子どもたちの教育環境をよくする活動という2つの大きな目標が掲げられた。
  • 初期においては、学校後援会的な「ボスPTA」が多かった。
  • 後援会的PTAは高度経済成長期にいったん破綻し、以来、常にPTAは意義を問われ続けている。

■ 日本の教育を支えて


 ぼくたちは、新世紀のPTAを生きている。そこで、何をすべきか考える時、やはりこういった「原点」には自覚的でありたい。そして、それは冒頭に述べたとおり「エキサイティング」なことだ。

 PTAの歴史は幾重にも捻れている。

 まず、その出発点がGHQによる発案で、自主・民主的な団体と言っても「強制された」ものだったことを問題にする人もいるだろう。「自発的に組織しなさい」と指導されて創られた組織は、本当に「自発的」なのか。すこぶる疑問だ。

 にもかかわらず、戦後から20年ほどの間、そのように結成されたPTAが、本来の主旨をやや曲解しつつも、日本の教育を支えたということは貴い事実だ。捻れに捻れて、善し悪しを超えている。その時、真剣に活動に取り組んだ方々には、純粋に尊敬の念を抱く。

 その時期を過ぎると、今度は別の矛盾が目立ってくる。たとえば、P(保護者)とT(教員)という立場の違う人たちが、あえて「対等」の存在として活動することから来る葛藤。PTAがそもそもの理念のレベルで内蔵しているトリッキーな部分だ。また、PTAが例年通りの活動を繰り返しがちであるがゆえに、溜まりに溜まった組織運営のひずみ。多くのPTAで、役員のなり手を探すのに苦労している現実……。

 無駄にも思える労力と、無意味に思える熱意を注ぎ込まれて、また、時に空回りさせつつも、PTAは20世紀を生き抜き、今日も続いている。文句たらたらな人がたくさんいる反面、何かを得たり、自ら成長する人もいる。PTAの歴史には、矛盾を原動力にした、人の思いのダイナミックな発露を見いだせる。いや今だって、地域社会との連携や、安全・安心をめぐるさまざまな活動の中で会員たちは……と、ここで熱くなっても仕方ない。次回からは、じゃあ、現在進行形のPTAが、どんな「カタチ」をしているのか、ということに入っていこう。

著:川端裕人
(婦人公論 2007.5.22 掲載)

PDF版注釈
 この文書は、川端裕人が中央公論新社の「婦人公論」誌上にて、2007年4月より1年間にわたって連載した(文書作成時は連載中)、「みんなのPTAをさがして」をPDF化したものです。多くの人に読んでいただくために、ブログ・リヴァイアさん、日々のわざ にて公開することにしました。このままの形であれば、自由に複製・配布してくださってかまいません。
 なお、このPDF版は、入稿時の原稿を元にして、体裁を整えたものです。誤字脱字などの誤りは、多く残っており、また、細かな点で、雑誌掲載時とは違う部分があることはご承知置きください。
川端裕人
posted by Pさん at 20:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
川端さん、はじめましてこんにちは。
PTA再活用論の本を読みました。昨年度、第1子が小学校に入学して以来、PTAで悩んでいたので、大変参考になりました。今年3月までは大学教員をしていましたが、PTAと仕事の両立が不可能なことで、退職しました。4月からはPTAのムダで無理な仕事をなくす事を目的に、常任委員に立候補して変革のため策を考えています。
委員になり判ったことは、一般会員とPTA役員の認識の違いでした。認識のズレについては、会員全世帯向けのアンケートをして無理・無駄なPTA活動を数値で明らかにしていこうと思って企画しています。ただ、アンケートを常任委員会で承認してもらえるかどうかが心配です。
矛盾の多いPTA変革に向けて、ご助言がございましたらつまずく前に教えていただけますと幸いです。
Posted by 鈴木静 at 2009年05月08日 10:24
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