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婦人公論、プレジデントファミリー (2007.9.22)
婦人公論連載のPDF版。9回めと10回めを一挙公開 (2008.1.11)
たしかに、PTA会員の中には、活動の意義をまったく理解しようとせず、文句ばっかり言う人や、耳をかしてくれない人がいる。
でもね、ぼくはそういう人たちに対してあまり強いことは言えないなあといつも感じているんだ。
■ PTA不要論者です
みんな、子どもが家にいる夏休み、エンジョイしてる? PTAライフはほっと一息? ぼくは、来学期の活動の仕込み中。あんなこと、こんなことやる予定。
さて、今回もみんなのお便りを紹介するよ。ちょっと真面目な議論もするから、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』でもずっと流して、心をクールに保とう。まずは、山口県下関市のTRさんからのお便りではじめようか。
――PTAは家庭環境おかまいなしです。私は離婚し、親も近くに住んでいないため私以外に子どもを見てくれる人はいません……それなのにPTAの話し合いはいつも夜7時から。7時といえば、子どもの風呂にご飯にとドタバタしている時間帯。とてもじゃないけど無理なので役員にはなれません。
――どうしてPTAって90パーセント以上が母親なのでしょう。川端さんのようにPTAに参加する父親が私の周りにはいません。男の人はPTAに参加できない理由を「仕事」にできるが、女の人は認めてもらえません。
――誰かPTAをなくしてくれ! と心の底から願っています。……以上、何もせずに腹ばかり立てている母でした。
TRさんは、PTA不要論者。そして、おまけに「何もしていない」人なんだね。
そういう人の意見は貴重。PTA会員だからある程度、活動のことは知っており、なおかつ「中の人」になりきっていない。つまり、客観的な意見が期待できる。TRさんが所属するPTAの活動表を送ってくれて、彼女の目から見て必要のないものをリストアップしてくれたから、それを見ていこう。
まずね、ここのPTA会員は、かならず厚生部・環境部・保体部・広報部・執行部のどこかに属することになるんだって。入会は強制であるだけでなく、部の活動(委員会活動)も全員参加なんだね。
TRさんが不要と思うPTA活動とは何か……。まず、厚生部のバザー。収益は文化活動の企画・運営などに使われるということなのだけれど、「何に使っているのか不明」と感じているそう。
また、環境部による校内清掃の企画・運営、遊具の安全点検は、そもそも「学校の仕事」なんじゃないかというご意見。また、夏祭りの見回り、アルミ缶整理、児童の校外生活に関することは「家庭の仕事」だろうというのね。なるほど。
広報部による、広報誌の発刊も、「学校からも新聞が発行されている」という理由で不要。PTA執行部の活動のいっさい(PTA活動の企画・運営)も「学校は保護者を巻きこみたい仕事があれば、その都度、声を掛ければいい」という理由で必要ないとばっさり切り捨てちゃう。
さて、どんなもんでしょうか。PTAの役員や委員をやったことがある人は、抵抗ある? あるいは、そうだそうだ! と思う? いずれにしても、頭をクールにしてよく読み込んでみると、PTAのどういう部分が「いらない」とされているのか見えてくる。
つまりね、TRさんにとって、PTAとは学校の支援団体で、いわば便利屋さんみたいに奉仕するものだというふうに見えているみたい。この連載を読んでくれている人なら、本来はそうじゃないことはわかってくれると思うのだけれど、現実には「PTA=お世話になっている学校に協力する団体」という考え方は強いのだろうね。
たとえば、PTA広報誌。本来PTA独自の問題意識、興味関心に基づいて編集されるもので、PTA活動の生命線と言っていいほど大事なもののはず。でも、もしそれが学校が編集する学校だよりと変わらない内容なら、たしかに「いらない」と思われても仕方ないんだ。
TRさんの意見は、別に極端だったり、特別だったりするものじゃない。ぼくの経験から言っても、似たようなことを考えている人はたくさんいる。ちょっと離れたところからは、こう見えるんだと心に留めておいたほうがいい。
■ なかなか面白いですよ!
その一方でPTAを「護るべき」というお便りも頂いたよ。宮城県仙台市のKSさんは、小学校と中学校のPTA会長を通算8年も務めた方。つまり、ぼくなんぞにしてみると、PTA活動の大先輩。「何もせずに腹ばかり立てている」TRさんとはある意味で対極的な立場だよね。
――子どもが学校に入ったら自動的にPTA会員になるというのは、理屈には合わないかもしれません。でも、やってみなければわかりません。特にPTAの場合「大変だ」というイメージが必要以上に浸透しているような気がします。実際、仕事をしている親には大変だと思いますが、授業参観以外で親が来てくれると自慢に思うお子さんもたくさん見てきました……(中略)……おせっかいかもしれませんが、大事な子育ての時期を食わず嫌いでやり過ごさないために、お子さんが学校にいる間は自動的に会員になるという慣習は残しておいてほしいと思います。
同じく小学校と中学校で足かけ8年、役員経験のある愛知県春日井市のACさんも、こんなふうなご意見。
――経験者の立場でいうと、やってみれば親同士のつながりもでき、先生方の仕事の様子などもわかって、なかなか面白い……。
――PTAに任意で加入できるようになったら、会員がどんどん減っていってしまうのではと危惧します。会社の労働組合や身近な所では「子供会」も加入者が減っていますが、同じ流れになってしまわないでしょうか。ますます活動しづらくなるように感じるのですが……。
結局、PTA不要論者のTRさんと、肯定的なKSさん、ACさんはどう違うんだろうね。ぼくが思うに、それは「やってみてはじめてわかる」部分が大きいのではないかな。ぼくとしても、PTA活動の中で、「子縁」でつながる仲間たちとの絆は強くなったと思うし、先生の仕事も立体的に見えるようになってきた。こういった歓びは、やってみるまでわからなかった。KSさんもACさんも、近いことを書いているよね。
最初は不安だったり気が重かったりするけれど、活動をする中で「よさ」に目覚めるというのが、PTA活動のよくあるパターンみたい。実は、頂いたお便りの中にもそういうのが多いんだ。広報誌の編集を通じて世界が広がったり、一生付き合えるよき友を得たり、といった体験談ね。
■ 熱が出た子どもを置いて
そんな中、とりわけ印象的なのが埼玉県熊谷市のUNさん。夜の活動が多いPTAで、小さな子どもの預け先がないのに、役員を務めあげたそう。大変だったろうなあ。よく頑張ったね!
実際、ひどい苦労もしたみたい。子どもを家で待たせることが多くなってダンナさんに怒鳴られたり、お子さんの忘れものが「激増、倍増!」してしまったり、地区の人に訳もわからずいきなり怒られたり、在任中に肝臓に腫瘍が見つかったり(ストレスが原因?)……。さらには、委員会を休めずに熱の出た子を一人で家に置いてきてしまったり! ええっ、それってアリですか? さすがにまずいんじゃ……。でも、無事でよかった……と今さらながらドキドキしちゃうよね。
でも、これだけの苦労をしつつも、結局、1年を終えた時点で、不思議とこんなふうに言えちゃうわけ。
――千載一遇のチャンスだったと思うし、普通は知り合えない他地区の他学年の本部役員の方々に出会えたこと、校長先生に教えていただいたすべての事は、人生の糧になったと思います。
まさにPTAで何かを得る人の典型なんじゃないかな。よかったよね。こういう話を聞くと前向きになれる。
ただ、UNさんが続けて書いていることが、すごく気になるので引用するよ。
――会員は二つに分かれると思います。
"サルと人間"。人間が他の動物と大きく違う所は、文字や言葉により、コミュニケーションを取れるところだと思うのですが、同じ日本人なのに日本語が理解できない。コミュニケーションというのは相手の立場、自分の立場、意見の相互理解により生まれると思いますが、相手はいっさい無視。どの世界、業界でも相手の立場や意見を理解し、お互いに相手を思いやる気持ちを持ってこそ、発展があると思うのですが、PTAは一部の人間会員によってのみ発展してしまうため、一部のサル会員は理解できず、PTA=敵という公式になると思われます。
■ 溝はきっとうめられる
人間会員とサル会員。ぼくが引っかかったのは、この議論についてどう感じるかが、試金石かもしれないと思うから。
たしかに、PTA会員の中には、活動の意義をまったく理解しようとせず、文句ばっかり言う人や、耳をかしてくれない人がいる。委員や係から逃げおおせて卒業する「ずるい」人もよく聞くよね。冒頭で紹介したTRさんも、自称「何もせずに腹ばかり立てている」という意味で、"サル会員"かもね(ごめん、TRさん)。
でもね、ぼくはそういう人たちに対してあまり強いことは言えないなあといつも感じているんだ。だって、本当は入退会が自由な会に意思を問うこともなく加入してもらっているわけで、おまけに会費まで出してくれてるんだよ。もちろん、ぼくらだって条件は同じわけだけれど、役員になって執行側に立つ以上、自然発生してしまう強制力・プチ権力を行使してしまいかねない危険は自覚しなきゃ。
PTAを発展させてきたという"人間会員"は、PTAが「会」であり、会とはまず会員のためにあるってことを忘れがちだったんじゃないかな。子どものためとは言うけれど、何が子どものためになるのか価値観は多様なはず。会員が自由に議論できる環境がなく、一部の人たちが決めた「子どものため」が活動方針となるPTAなら、背を向けたくなる人がいるのも当然だよ。これは別にUNさんの所を言っているわけじゃない。ぼくらのPTAはすべて、注意をしないとこういう落とし穴に落ちてしまう気がしている。そして、関心のない親をかたくなにし、対話を拒絶させるほど強烈なトラウマを植え付けちゃいがちだと思う。
UNさんが迫られた究極の選択について考えてみて。熱の出た子を一人で家に置いてまでPTA活動はすべきものなのかな。考えると切なくなるよ。いや、切ないだけじゃなく、場合によっては児童虐待のネグレクトに相当するかもしれない。もし、それが「当たり前」である組織なら、「子どものため」を願う親が逃げるのは当然だよね。
それでも、やっぱり委員会は休めないと言うなら、その瞬間、実は"サル会員"とも相互理解の回路が開けることに気づいていた? 仕事を持つ母親が、子どもが発熱したのに会社を休めず苦悩する姿と、委員会を休めないPTA役員の姿って似ているよ。いや、会社を休むとクビになりかねない場合もあるわけで、「子どものためと称して子どもに負担をかける」PTAのほうがより業が深いかもしれないよね。ぼくも役員の活動で、時々、子どもに負担をかけるから、他人事じゃない。つまり、"人間会員"のふりをしていたぼくが(悪いけど……UNさんも)実は"サル会員"だったとわかったら、その瞬間に色々なものが見えてくるかも。
さて元祖"サル会員"のTRさん(再度、ゴメン!)の冒頭に紹介した考えをどう思う? やはり、論外? それとも、新鮮に響く部分はあった? あらためて考えてみてほしいんだ。
2回連続でお届けした、お便り紹介は終わり。好評ならまたやるよ。今度は、PTAで工夫した楽しい、有意義な活動とか、いじめや学級崩壊に際してPTAが積極的にかかわった例とか、「あってよかったPTA!」なんて思えるケースが紹介できるといいな。
著:川端裕人
(婦人公論 2007.9.7 掲載)
PDF版注釈
この文書は、川端裕人が中央公論新社の「婦人公論」誌上にて、2007年4月より1年間にわたって連載した(文書作成時は連載中)、「みんなのPTAをさがして」をPDF化したものです。多くの人に読んでいただくために、ブログ・リヴァイアさん、日々のわざ にて公開することにしました。このままの形であれば、自由に複製・配布してくださってかまいません。
なお、このPDF版は、入稿時の原稿を元にして、体裁を整えたものです。誤字脱字などの誤りは、多く残っており、また、細かな点で、雑誌掲載時とは違う部分があることはご承知置きください。川端裕人




しかし、ここで私なりに考えてみました。一体何が解決したのか?この問題の根っこにあるものは?
強制入会でなく任意の選択制にする、これ自体は前進と思います。しかし、私たちに許されているのは、選択肢を示されて、ただ選ぶことだけなのでしょうか?もしその選択自体が強制されたものであるならば、自分が選び、(選ばされ)手にしたものとは、いったい何なのでしょうか?
私が思うには、この問題が単にPTAや、学校や地域社会の中での問題意識だけでは収まりきらない種類のものだと感じております。なぜかといいますと、義務教育の強制こそが、私たちにこの選択を強制しているからです。
病根の連鎖はそこから来ており、したがいまして私は義務教育の強制に反対です。と申しましても、なかなか一般の理解は得られにくいのも事実です。現在、私は友人と共に、義務教育の強制廃止についての勉強会がてら、ホームスクーリングをしている家庭や、フリースクール関係者などに呼びかけて、来年一月末頃、伊豆で合宿を計画しています。私的には、サル会員も人間会員も参加歓迎です。みんな同じシステムの下でしか存在が許されていないわけですから、煮詰めれば問題意識は共有できるものと思います。
「夢みたいだ」と笑われるかもしれませんが、教育の主導権を官から民へ取り戻す事ができれば、PTAの役割や、存在意義もずいぶん変わるのではないでしょうか。
「教育の主導権を官から民へ取り戻す」ということは、官からの画一的な強制(もしかしてこれは、ソフトな徴兵制なのか?)からの脱出、そして自由の獲得という意味であろうと想像します。しかしながら同時に現状では、教育現場への商業主義の跋扈を許すものではないかという気もして、その点が気がかりではあります。
もっとも、ボク自身は教育の商業化が悪いことなのかどうかについては、判断を保留している状態です。ただ、和田中の例しかり、教育現場と商業主義は一線を引くべきだとの意見が多くある状況から、ふと思った次第です。
あるいは、官から逃れつつも、商業主義一辺倒にならない、そんな方策をボクが見過ごしているのかもしれませんが。
私見ですが、教育と商業主義の関わり方として重要なのは、「多様な教育」の在り方を進めてゆく力としての商業主義であれば、これはかなり理想的かと思います。
しかし、これには、その前提条件として「多様な教育」というニーズがすでになければならないので、現状のように、そのようなニーズがほとんど育っていない(育てられていない)現実が、現時点でこの問題最大のキモかと思います。
「多様な教育」を育て、進めてゆく主張には、これまた私見ですが、二つあるかと思います。そのひとつは「公教育の多様化」が挙げられるのではないでしょうか。教育特区を利用して、これを足がかりにフリースクールの公教育化を計ろうという動きなどが、これに当たると思います。この取り組み自体は大がかりなもので、目下、一番現実的なもののような気もします。
ふたつめは、公教育一辺倒そのものを改めさせる主張です。つまり、義務教育の強制を廃止して、現在ただの脱法行為としてしか扱われていないホームスクーリングなどオルタナティブ教育の実践を合法的に認めろという主張です。
注目していただきたいのは、この二つの主張で共通するのが、「公教育を廃止せよ」とは、言っていないということです。
現在のように、「多様な教育」への目標を持ち合わせていない人々にも安心できる場所として、従来通りの学校はあっても良いはずです。だけど、その扱いについては、「多様な教育」のひとつとして示されるべきものだと、私などは思うのです。
皮肉なことかもしれませんが、公教育が存在していることで、商業主義者が急激に跋扈するという事もないのではないでしょうか。なぜならば、みんな寄らば大樹のかげが好きですからですから、大多数は公教育に守られて(?)いる方を望むのではないかと思います。なのでまずは、パイオニアワークを実践する人びとを自由にさせてあげるのが、また、その成果を公平に評価できる環境作りを進めるのが、最初の第一歩だと、そう思います。
あと、現在の教育と商業主義の関わり方についても、十分検証する必要があると思います。偏差値教育の補完物としての商業主義が、格差社会や貧困問題と、どう関わっているのか?教育現場という「聖域」さえ守られていれば問題ないのか?あるいは商業主義の良い効果とは?良くない効果とは?
こりゃ課題は山積みですね。でもちょっとづつでも、解決してゆく事はなかなか楽しいんじゃないでしょうか。