川端裕人さんの「みんなのPTAを探して」(「婦人公論」連載:2007/4〜2008/3)のバックナンバーを「ブログ版」として公開しています。(著者公認)
 はじめていらっしゃった方は、まずは著者本人の「ごあいさつ」をお読みください。
管理人:Pさん
 

2008年02月13日

第16回 自分の意思で入会する、これが当たり前だ!


本家関連エントリー
 任意加入続報 (2007.11.22)
 佳境三部作(?)をアップします (2008.2.13)


 PTAの自動加入・強制加入はやはりPTAの病根だ。
 そのことが、多くの会員を悩ませている閉塞感や組織の肥大化などの根源だとも確信している。


■ 自発・自主が建前なのに


 PTAは自由な入退会ができる任意加入の団体だ(任意団体というとまた別の意味が出てくるから注意)。これは実際にどのように運営されているかにかかわらず、事実だ。われわれの社会において、本人の意思を問わず、自動的に、時に強制的に、ある団体に加入させられることは、特殊な条件下を除いて、ありえないし、あってはならない。ましてや、自発的に組織され、自主的に運営されるのが建前のPTAの入退会が、自由でないはずがない。疑問に思ったら、ご自分のところの役員に聞いてみるといい。もっとも、個々のPTAの役員は、この事実を知らないこともあるから、PTAに助言を与える立場にある教育委員会の社会教育主事に確認すれば、よりはっきりする。

 とはいえ、実際に任意加入をうたって活動しているPTAは少数派だ。この連載を始めてからさまざまなルートで「実例」が集まりつつあるから、それらを紹介しつつ、考える。

■ 任意でも100パーセント加入


 以前書いたが、世田谷区の小学校PTAでも、いくつかのところが、「入会申込書」を書いてもらって会員登録している。これは心強い。まさに「意思を問うている」わけだし、子どもではなく会員である保護者の名前の名簿だってできるだろう(「子どもの名前」で会員管理をしているところが多い)。しかし現実的には、PTAについての説明会がちゃんと行われなかったり、そもそも「全員加入」が当たり前という無言の圧力があったり、ちょっと切ない部分があるようだった。じゃあ、もっと普通の意味で「任意加入」を貫いているところはないのか。

 ある日、PTA仲間からメールが来た。いわく、「任意加入の件、たまたま友人に会って話していたら、狐につままれたみたいな顔をしていて……つまり、そんなの当たり前じゃない、自動加入とか、強制加入なんてありえないって、すごく驚かれて……」。

 正直、びっくりしたし、小躍りして喜んだ。一方、役員経験のあるその「友人」さんも非常に驚いて、近所のほかの小学校PTAにも「みんなのとこはどう?」と聞いてくれたそうだ。結果、付き合いのある近隣7校すべてが「自由に入退会できる」ことを周知させていることがわかった。入学式の日には、「みなさんPTAにはいってくださーい」とやるのが年中行事であるようなPTAがごく普通にあるというのだ。

 びっくりを通り越して、歓喜に至る。話を聞きに行くしかない。

 「友人」さんの学校は都内の区立小学校で、昭和50年代の開校だ。生徒数400人に満たない中規模校。この時代は、児童数の増加にともなって、既存の小学校からわかれて新しい小学校が生まれることが多かった。

 「調べてみたら、途中から変わったわけではなくて、開校時からです。分離前の小学校のPTAで、前年に準備委員会ができて、そこでどんなPTAにするか話し合われたんですよ」とぼくの「PTA仲間の友人」であるAさんは述べた。

 この話し合いの際、集約するとPTAについて3種類の意見があったそうだ。(1)PTAは必要、(2)ないほうがいい、(3)どっちでもいい。

 ここで驚いたのは、「PTAをつくるかどうか」が問題にされているわけで、加入が「任意か自動か」というのはそもそも論点にすらなっていないことだ。母体となった小学校PTAも、「任意加入」だったから、そこは当たり前のことと考えられていたのだろう。

 いずれにしても、こんなふうに、やりたい人と、やりたくない人、そして、無関心な人が混在する場所で、互いに尊重し合って話し合うなら、発起人が「PTAやります。一緒にやってくれる人、入会してください」と呼びかけるのはごくごく自然なことだったろう。

 これは文化の違い、ということなのだろうか。お互いのPTAでの状況に驚き合って、途中からはどっちが取材しているのかわからなくなった。ぼくとしては、なにはともあれ任意加入が当たり前なPTA文化が、ごくローカルに、それも23区内に息づいていると確認できてハッピーな気分だ。

 もっとも、「じゃあ、今、加入率はどれだけですか?」という質問には「100パーセント」と返ってきた。
 「え? 1人や2人、入らない人、いるのでは……」と思わず問い返した。
 「いやあ、いませんね。ほかの学校もいないみたいで……」

 おやっ、と思う。「入るか入らないか」意思を問うたうえでみんなが入会というのは、一見、自発的な組織としては満点、なのかもしれないが……。

「任意加入だけど、みんな入るもんだという雰囲気があるのは事実ですね。最初は違ったのかもしれないけど……」

 やはり、ぼくたちは嫌になるくらい、「みんな一緒」が好きなのだな、とこんなところで再確認する。なにしろこの連載だって「みんなのPTA」だもの。トホホです。
 

■ 心も体も痛めつけられて


 国分寺市の加藤薫さんは、文化女子大学の准教授で、専門は日本語・日本文化だ。この連載を読んで手紙をくださった。彼自身、娘さんが中学2年生、3年生の時にPTAの「P連(PTA連合体)委員」として活動し、そのなかで、自分の中学校PTAを「入会の意思確認を取るようにし、会費の教材費などとの抱き合わせ徴収も改めた」という実績を持つ。事実上の自動・強制加入のPTAで、意思確認を重視する方向に舵が取られるのは素晴らしいことだ。

 さっそくお会いして、意見交換。

「家内がPTAのせいで『不登校』になりまして、わたしが行くことになったのですが、最初に驚いたのは委員の選出なんですね。クラス委員2人、広報委員1人、役員選考委員1人、P連委員1人の計5人で、そのなかで人気のない選考委員とP連委員がなかなか決まらないんです。このままじゃクジ引きだっていうんですが、かりに当たったとしても『わたしは無理です』で断れるのが世間の常識じゃないですか。それが通じない。当たった人は、辞退したければ代役をさがしてこないかぎり強制的に委員にされてしまう。意思も問わずに会員にしておいて、それはないだろう、と思いました」

 加藤さんの考えに、ぼくは共感する。PTAの委員決めや役員決めの理不尽さといったら、およそそれまで自分が常識と考えていたことからかけ離れたものだ。はじめて出会った時の衝撃は、ぼくにとっても天地がひっくり返るほどだった。

 結局、加藤さんは「P連委員」なるものを引き受けることになった。これは各校のPTAではなく、P連(この場合は、国分寺市のPTA連合体)で仕事をするもので、加藤さんはほかの学校から選出されてきた委員と一緒に、連合体の「地域環境改善委員会」に属することになった。この委員会は、「それなりにやりがいがある」ものだったようなのだが、別の面で大きなストレスがあったという。

 「P連には理事会というのがありまして、各校のPTA会長などが、委員会の活動をチェックするわけです。配布物にも細かい注文がついて、時には委員が苦労して作ったものが配れなくなる。注文を受け入れて修正しても、結局は訳のわからない理由でボツになったり。日本語の研究をしているわたしでも、なんでこんな指摘が入るのか、と理解に苦しむことがたくさんありました。委員会の委員長は、理事会と委員の間で板挟みになり、体調を崩してしまって。自分のPTAに帰って、運営委員会で『P連の委員長が、理事会でいじめのような仕打ちを受けている』と報告したら、同じような体験をした人が続出していて、P連の問題が個々のPTAの会員にも大きなストレスになっているということが共有できたんです。ほんとうに、有無をいわせずPTA会員にされ、運が悪いとP連委員にされ、さらに運が悪いとP連の委員会の委員長にされ、心も体も痛めつけられることになるわけですから」

■ 強制でさえなければ


 そこで、加藤さんが処方箋として考えたのは、まず「PTAの入会が任意であることを周知させる」ことだ。この悪い連鎖の、一番最初の部分を切ろうとするのはごく自然の発想だとぼくも思う。

 「家内と想定問答集までつくって、学会発表するよりもずっと慎重に準備をしました。でも、運営委員会では、意外とあっさり受け入れられました。これまで保護者全員に入ってもらうというスタンスで、会費も教材費などと抱き合わせに徴収されていたのですが、任意加入であることを保護者にきちんと示し、会費も単独で納める形にしたのです。PTAに入るか入らないかをきちんと選ぶことで、だれもがやりたくないような委員会は自然と淘汰されるのを期待して……」

 実際に、翌年、これまで本人の意思にかかわらずクラスから選出していた「P連委員」を、「本人の自由意思による参加」と、規約に書き込むことができた。「執行部のなかに、保護者の支持を失えばPTAが消滅するという、良い意味での危機意識が芽生えたからこそできたと思います」とのこと。

 しかし、こういった時、P連にはどう理解してもらったのか。大変気になるのだが、これは単純な回答だった。

 「だって、認めてもらえなかったら、P連を脱退せざるをえないかもしれないと思っていたわけですから……」

 なるほど、個人のレベルでPTAの入退会の自由を徹底することは、個々のPTAと連合体の関係にも影響するということだ。「会員の支持」があるかどうか、当たり前のことを問い直すだけでここまで変わった例として、感動的ですらある。

 この時のPTA会長が自校のPTA会員とP連理事会に向けて書いた文章を読ませてもらった。PTA連合体を「地域民主主義の苗床」として敬意を表しつつ、「かつては権利と捉えられていたP連への派遣が多くの場合、本人の意思にそぐわない、重苦しい義務感をともなう」ものになってしまったと訴えている。また、多くのPTA会員が、活動意欲を失っていった経緯も説明し、「人権尊重の観点」(!)から、P連への「本人の自由意思による参加」が適切だとする。切実で誠実な語り口が胸に響いた。

 その後のことだが、加藤さんが「卒業」しても脱退者はおらず(ここでも「みんな一緒」の原理が働いている?)、P連委員にも「やりたい人」が少なからず出ているという。強制でなければ、逆にやりたいという人が出るのはよくある話。さらにいえば、自由な入退会を再確認する動きも市内で広がっているという。
 

■ 自由な入退会は基本


 結局、「任意加入」と一言でいっても、実はさまざまだ。国分寺の例のように会員のニーズに敏感になって変化につながることもあれば、規約には書かれているのに実際にはまったく意識されないこともある。入会届を出してもらっても事実上の自動加入になっているところは実にもったいない。通常の会員組織のように、会員の支持のない活動はできないという緊張感を持つだけで、役員の思い込みや他団体とのしがらみから抜け出した身の丈にあった活動になるはずなのに……。

 というわけで、目下のところのまとめ。

 PTAの自動加入・強制加入はやはりPTAの病根だ。そのことが、多くの会員を悩ませている閉塞感や組織の肥大化などの根源だとも確信している。しかし、それは制度の問題だけではなく「みんながやっているからわたしも」といった強い同調圧力も絡むため、ことは単純ではない。むろん「自由な入退会」が強調されることで、何かが変わることはありうるし素敵な実例にも出会った。しかし、これさえ改めればすべてが好転すると期待するわけにもいかなそうだ。だから「自由な入退会」は、当然押さえるべき基本として確認したうえで、さらに踏み込んだ「何か」を探したい。

 その「何か」は、ひょっとすると同時多発的に、すでに試みられているかもしれない。それについては次号。

著:川端裕人
(婦人公論 2007.12.7 掲載)

PDF版注釈
 この文書は、川端裕人が中央公論新社の「婦人公論」誌上にて、2007年4月より1年間にわたって連載した(文書作成時は連載中)、「みんなのPTAをさがして」をPDF化したものです。多くの人に読んでいただくために、ブログ・リヴァイアさん、日々のわざ にて公開することにしました。このままの形であれば、自由に複製・配布してくださってかまいません。
 なお、このPDF版は、入稿時の原稿を元にして、体裁を整えたものです。誤字脱字などの誤りは、多く残っており、また、細かな点で、雑誌掲載時とは違う部分があることはご承知置きください。
川端裕人
posted by Pさん at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。