川端裕人さんの「みんなのPTAを探して」(「婦人公論」連載:2007/4〜2008/3)のバックナンバーを「ブログ版」として公開しています。(著者公認)
 はじめていらっしゃった方は、まずは著者本人の「ごあいさつ」をお読みください。
管理人:Pさん
 

2008年02月27日

第19回 PTA草創期のお話


本家関連エントリー
 カウントダウン (2008.1.22)
 婦人公論PDF、草創期の話 (2008.2.27)


 昭和20年の終戦直後、学校も荒れ果てているし、道路で子どもがひどいかっこうして遊んでいるしでと、大人としては見ていられないような状況でした。これは親だけが一生懸命やっても、子どもを何とかするには教師も一緒にやらなくちゃならないということから、私どもが学校に近づいていきました。
――宮原喜美子(PTA研究340号)


 1971年より36年間にわたって、PTA研究を行ってきた全国PTA問題研究会の定期刊行物からの引用だ。終戦直後、「世田谷の母親代表」として、文部省でPTA審議委員を務めた宮原喜美子のインタビュー。この審議会で、文部省が全国の小中学校に配布した「参考規約」(48年10月)が起草されたから、宮原はいわば「PTAの母」だ。さらに、その後、世田谷区の小学校でPTA副会長を務め、インタビューではその時の様子が中心に語られている。つまり、日本で一番最初にPTAに出会い「参考規約」まで書いた人物によるPTA事始め。

 これが興味深い。彼女のPTAは、そもそも「校舎の建築」を役所に頼みに行くところから始まっている。さらに、雨が降ると校庭に水が溜まるので砂利を入れてほしい等々、行政と渡り合って教育環境の充実をはかる姿勢がはっきりしていた。教員側も会員としての意識を強く持っていて、会計や書記などの仕事を率先して行ったことも読み取れる。

 特筆すべきは、「玉ちゃんくらぶ」の存在。宮原が住んでいた世田谷区玉川地域の小中学校のPTA会員(保護者、教師、教頭、校長ら)が地元のお寺の本堂に集まって、その時々の「問題」について話し合う、学校を越え、保護者と教師の立場も越えた「市民PTA」活動だ。これが毎回50人を超える盛況で、PTAの役員改選について話し合った時など「学校のためにうんと働いてくれる人」よりも、「PTAの日常活動の世話をしてくれるのに適任かどうかを第一の基準にすべき」と結論している。21世紀のPTAでも、運営委員会で校長が「みなさん、学校のために集まっていただきありがとうございます」と連発するケースもあるわけで、さすがに出発点は意識が高いというべきか。ひょっとするとPTAの黄金時代は、まさに発足当時だったのかも。当時を知る人の「生の声」を聞きたくなる。


 Kさん(男性)とEさん(女性)は、退職した元教職員だ。うちの近所にお住まいで、昭和28年に新設された小学校の「最初の10年」に教職員側のPTA役員を経験した。ひょんなことをきっかけに紹介いただいたのだが、ぼくにとって最も年長の「PTA仲間」である。

 はじめてお会いした時、開口一番、お二人が同時期に在籍した小学校の「あの頃」の校舎の話や、校庭の隅に流れていた小川や、校庭にぽつんとあった電信柱などの話になった。ぼくにとっては見知った光景でもないのに、胸がツンとなる。けれど、主題はPTA。時計の針をもう少し戻して、終戦直後の話から始めてもらった。お二人にとっては「前任校」でのことだ。

 「4月の職員会議で、校長先生が言ったのをよく覚えているなあ。これまで父兄会といっていたのを、父母会にかえます。兄は出てこないからですって。なるほどと思いましたね――」

 「それでね、これからは父母と先生の会、PTAというのができますって。参考規約ってのも後から来て、民主化のためにということが書いてあるがピンと来ない。ピンとこないまま、最初はやってたなあ」

 「ひとつの大きな変化は、若いお母さんが大手を振って会合に出るようになったことだね。これまでの父兄会だと、年寄りの地元有力者なんかが多かった。でも、PTAは親なんだから、お母さんが多い。出番を失った地域のボスが機嫌をそこねたけれど、学校は明るくなったよね」

 というようなことが、遠い目で思い出していただいた草創期。PTAは父兄会ではないから、子育てにかかわる母親が出てくるべきだと、宮原の「玉ちゃんくらぶ」でも結論づけていたのを思い出す。
 

■ 初期の活動


 さて、お二人が教職員側のPTA役員を務めた小学校の話。創立された昭和28年は、サンフランシスコ講和条約が発効し、奄美諸島返還され、日本テレビ放送網が民放として初のテレビ放送を開始し、衆議院がバカヤロー解散した年。戦後の混乱期は抜けつつあり、いよいよふたたび日本が国際社会に出て行く「リスタート」の時期で、PTAの意気込みも強かった。水を向けると、当時のエピソードが出てくるわ出てくるわ。

 もともと畑だった場所なので、校庭には樹木がない。そこで保護者たちが樹木を持ち寄り桜や樫を植樹した。学校予算を補うために映画会を開いたり、運動会で売店を出したり……。

 「おらが学校に役立つことならば……って、毎日のように学校に来て、なにかできることはないか探してくれてるお母さんたちがいましたねぇ」

 「学級の委員さんが熱心でね……今みたいにあれこれたくさんの係や委員会はなかったんですよ。みんなできることをやろうというかんじでした」

 「低学年の子の給食の配膳が大変だからって、お母さんたちがローテーションで来てくれるのよね。あれも、学級委員さんのよびかけでね、わーっと集まって」

 「お父さんも頑張っていた。メーカー勤務のお父さんが、学校の放送設備を整備してくれてね。あちこちにスピーカーをつけて、放送室までできて……」

 話の「行間」から、原始PTAのようなものがイメージできてくる。学年・学級委員がいれば、PTAというのは、とりあえずのところ成立する。そして、目の前にある教育環境、つまり、学校をよくするために力を合わせていくのはごく自然な流れだったようだ。校庭への植樹もそうだし、放送設備を作ってしまったお父さんの話など、先日紹介した岸裕司さんの秋津コミュティの話を思わせる。ニーズを察知して提案する保護者と、それを受け入れて学校をよくしたいと願う教員。この時代は誰の目に明らかな目標があった分、それがやりやすかった。かなりうらやましい。といったら語弊がある。物質的な豊かさが、今と比べるべくもない社会で、PとTが手を取り合って、よりよい教育環境をを創り上げようとしたことにまず敬意を表したい。
 

■ 黄金時代?


 50年代のPTAの関心は、「給食」に集中していたことを再確認する。PTAなくして学校給食なし、と言われた時代だ。脱脂粉乳の攪拌機(バターを加え、牛乳に近い状態に戻す)、食器洗浄機、消毒格納庫などを寄贈したり、給食室を整備したり、はてにはPTAの予算で栄養士を雇用してしまう。

 給食関係が一段落すると、今度は保護者の手で図書室が整備され、また、図書の充実がはかられた。こういったことが、最初の10年間で次々と起こっている。社会が豊かになっていく時期で、子どもだちの学校での学習環境、生活環境も向上していった背景に、常にPTAがあったといっても過言ではないだろう。

 まさに黄金時代じゃないだろうか。今、「PTAが何の役に立っているのか」と問われ、胸を張っていくつ挙げられるだろうか。でも、この時代には、誰の目にもはっきりしたPTAの貢献があった。 これだけ盛んに、またはっきりとした目的を持って熱心に行われていたPTA活動だから、役員決めなどもさぞ簡単だったのではないか。そう聞いたら、お二人とも首を横に振った。

 「役員はやっぱりなかなか決まりませんでしたね。家まで行ってお願いしたり。教師も加わって、あなたやってみたらどう? とかやってましたけど」

 「自営業のお父さんに会長をお願いすることが多かったけど、最初のころは分からないからって、断られたし。だんだん分かってくると、大変だから、って、ね」

 役員決めの困難さは、時代を超えて普遍的なのだろうか。「やってみれば楽しいのにね」と、KさんもEさんもどこかで聞いたようなことを異口同音に言う。
 

■ その後のこと


 黄金時代は長く続かない。このことをシャープに記憶していたのはKさんだ。

 「公教育の私費負担の解消というのがありましてね、これまで学校を後援してきたPTAは、寄付をしたりする後援団体ではなくなったんです。おかげでPTAの位置づけが、変わっていきました」

 これは東京都の教育長の通達を皮切りに全国に波及していった流れだ。PTAや保護者は、公教育にかかわることでお金を出さなくていいし、出してはいけない。公教育のための資金は、「公」が出す。60年代になって社会が豊かになり、やっとそういう「当たり前」のことができるようになった。そんな時、「足りないものを埋める」努力をしてきたPTAが、はっきり目に見える目標を見失った。

 これが黄金時代の終わり。

 「ほら、参考規約なんかには、親が民主主義教育を勉強するところだって書いてあったでしょう。でも、実際には後援が仕事だったからね。今では、成人教育とかやるんですか」

 Kさんは、PTAの書記だった頃に、文部省の参考規約などをよく読み、理念と現実とのギャップにしばしば戸惑いを感じていたという。

 「学校で父母会(保護者会)をやるじゃないですか。それで、学校からの連絡事項が終わったら、学級PTAにするでしょう。でもね、お母さんたちもよく分かっていない人が多いのね。教師も会員なんだけど、『じゃあ、先生、学校としてはどうなんですか』って、学校を代表しているみたいな雰囲気になってね」

 「戦後しばらくは、教師は地域で屈指の高学歴だったんですよ。でも、大学出るのが普通になってくると、学歴だけなら教師よりも、ずっと高い保護者がいるわけでしょ。教師はちょっとやりにくくなって、保護者の方でも教師を馬鹿にするような人もいるわけです。でもね、そんな時に、教師を育て、自分も育つって発想にならないかなあ」

 遠い目をして言われると、ぼくも思わずしんみりしてしまう。保護者と教師がお互いに学び合うという意味での「相互の成人教育」はPTAの基本のはずが、今も昔も困難なのかもしれない。

 「やっぱり学級PTAですかね」と聞いてみた。

 「そうね。学級PTAでできるといいんだけど、今は教師も忙しすぎてそれどころじゃないのかな……」とまたも遠い目。

 帰り際、ぼくのバッグの中にあった「PTA研究」に気づいて目を細めたのもKさんだ。「民主主義の学校」としてのPTA、保護者の教育権行使のルートとしてのPTA、といったことを追究していたこの研究誌を、Kさんも時々読んでいたそうだ。なるほど、だから「成人教育」の話が出てきたのか。それで言えば、件の「玉ちゃんくらぶ」は、保護者から校長までが同じ立場で話し合う画期的な「学び合い」だったのだなあと思い当たる。

 「足りないものを満たす」活動を進めたのが草創期のPTAだとして、そのために「PTA=学校後援団体」という、今の時代には少し焦点のぶれたイメージが定着したのだとしたらちょっと切ない。もっとも、同じ小学校PTAでも、違う年の役員に聞けば違う回答があるはずで、一面的に断じるわけにもいかない。

 ひとついえるのは、それぞれの時代に、それぞれのニーズがあって、PTAはそれに応じて活動を変えるし、変えるべきだということ。そして、「今」と直近の「明日」に責任を負うのは、まさにぼくら現役世代なのだ。

 まずは「民主主義の学校」(平等であることが強調される)として設計されたものが「後援団体」になったいきさつをふまえ、今は「危機管理団体」としての色合いを強く持ちつつあるPTAを、むしろ「成熟した市民社会のための学校」(個人の自立と貢献による共同体モデルを強調)に持っていくことはでいないか。それが、ぼくが思い描くPTAの未来だ。

著:川端裕人
(婦人公論 2008.2.7 掲載)

PDF版注釈
 この文書は、川端裕人が中央公論新社の「婦人公論」誌上にて、2007年4月より1年間にわたって連載した(文書作成時は連載中)、「みんなのPTAを探して」をPDF化したものです。多くの人に読んでいただくために、ブログ・リヴァイアさん、日々のわざ にて公開することにしました。このままの形であれば、自由に複製・配布してくださってかまいません。
 なお、このPDF版は、入稿時の原稿を元にして、体裁を整えたものです。誤字脱字などの誤りは、多く残っており、また、細かな点で、雑誌掲載時とは違う部分があることはご承知置きください。
川端裕人

posted by Pさん at 21:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
それぞれの時代のそれぞれのニーズ…「今」はPTA自体を変えることなのだと思っています。
Posted by yamato at 2012年03月01日 07:37
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。